イギリスの都市計画 ⑤ その歴史と背景

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London Street Scene

イギリスでは、建物を建てたり改築したりその用途目的を変更したりする時、その一件ごとが審査され、許可をもらう必要があるということを話してきました。(イギリスの都市計画)これは、他国に類を見ない珍しい制度なのですが、どうしてそんなややこしいものができたのでしょうか。ここでは、その歴史的背景について少し説明します。

産業革命とその影響

イギリスでは産業革命が起こった18世紀半ばから19世紀にかけて、農村から都市部への人口流入が急激に増えました。例えば、ロンドンは19世紀のはじめに人口が80万人を超え、19世紀半ばには180万人に膨れ上がりました。

またロンドン以外でも、イギリス各地で産業都市が発展し始め、19世紀半ばにはマンチェスター、リヴァプール、バーミンガム、リーズなど、人口が10万人を超える都市が出てきました。周りの農村地帯から職を求めて都市に出て来る人が増え、産業化の進展に伴う都市の人口集中は様々な都市問題を引き起こすようになりました。

 

ロンドンのスラム街 1872年 (Gustave Dore)

 

人口と産業の過密による都市の住環境や公衆衛生、交通渋滞などは劣悪さを増し、ロンドンやマンチェスターなどの大都市ではスラムが生まれ、都市住民、特に単純労働者や低所得者層は過酷な環境で暮らさざるを得なくなっていきました。

また、地方から都市に人口が流入した結果、イギリスのあちこちで過疎地が生まれ、人口や経済活動のアンバランスも起こってきました。17世紀末のイギリスは都市人口が25%程度でしたが、産業革命の前後で約50%になり、19世紀半ばには75%にまでなったのです。地方から職を求めて都市へと出ていく人が相次いだため、それまで農村にあった地域社会が崩壊するところも出てきました。

都市問題に対する提案

そんな背景の中、エベネザー・ハワードの田園都市構想など街づくりについて考察された提案や試み、個人の地主や企業が自らが所有している土地において計画的に開発をしたり、環境を改善しようとした実例はありましたが、都市計画が実際に国全体の制度として導入されるまでにはいたりませんでした。

1940年に提出されたバーロー報告書は、スラムに代表される都市の過密問題や過疎地域における経済問題が都市の無計画性によることを指摘しました。その対策として過密地区の再開発、過密地域から産業と産業人口をほかに分散させること、ロンドンなど大都市のさらなる膨張を防止することなどを提案しました。けれども、1939年に第2次世界対戦が始まっていたため、この報告書は戦後になるまで日の目を見ることはありませんでした。

戦後の労働党政府の取り組み

二度の大きな大戦でイギリス国民は戦争には飽々したようで、戦争を勝利に導いたチャーチル率いる保守党は1945年の総選挙に負け、労働党政権が誕生します。労働党は戦後再建に向けて、国民保険制度を始めとする福祉政策、主産業の国有化、経済の再建などと共に、都市計画をも主な政策の一つにあげました。「都市及び地方計画の実現、公益目的のための土地取得、国家利益のための土地の有効利用を推進するための手続き改正」という項目です。

具体的には、バーロー報告書の勧告に基いた新しい都市計画法が導入されました。1947年に発布された「都市田園計画法」(Town and Country Planning Act 1947)です。

1947年都市田園計画法

この法律はこれまで世界のどの国でも行われなかった、新しく大胆な都市計画制度をイギリスに導入しました。一言でいうと「都市開発権の国有化」です。

すべての開発が地方自治体による許可制(Planning Permission)のもとに置かれるとともに、イギリス全土において、開発許可の基準となる開発計画(Development Plan)が策定されることになったのです。この制度は様々な変遷を経て今なお続いている、イギリスの都市計画制度の骨格といえます。

今思えば大胆な発想で、主産業の国有化とか「ゆりかごから墓場まで」と言われた国民福祉政策の導入などといった、市民社会の最低生活基盤を保証し、新しい社会を作り上げるための政策を国民全員が労働党政府に委ねたという背景があってこそ実現した法律でしょう。

1979年サッチャー保守党政権での政策

その後60年代以降、英国病と言われるようにイギリス経済が衰退し、さまざまな経済・社会問題が蔓延したことで労働党は政権を奪われました。

1979年に誕生したサッチャー保守党政権は、民営化、緊縮財政、規制緩和などにより、戦後の労働党の政策を次々に覆しました。サッチャー政権の施策は資本主義と民間活力を活用し、公的な経済援助や介入を最低限にするものでした。

「鉄の女」サッチャーは、国有企業の民営化、大都市圏行政機関の解体、労働組合の弱体化といった、反対意見の多い施策を次々と実行し、都市計画の制度も弱体化しようとしました。けれども、それは局部的なものにとどまり、都市計画のおおよその制度は維持され、その後多少の変遷を経て今にいたっています。

これは、戦後に導入された都市計画の制度が、国民医療制度(National Health Service:NHS)などと共に、様々な課題をかかえながらも、国民に浸透し支持され続けているからでしょう。炭鉱が閉鎖されても、国鉄が民営化されても、イギリス国民はNHSと都市計画制度は守るべきものと考えているのです。

イギリス人にとって都市計画制度とは?

こうしてイギリスの都市計画制度ができあがり、これまでに維持され続けてきた歴史を振り返ってみると、イギリスの都市計画というものが、ハウスマンのパリ計画などのように政府や権力者が上から押し付けた都市の景観を整える制度ではなく、人間が生活する環境をより良くするための権利を保証するためのものだったということがわかります。

人間が集まって生活していく上で、家や職場はもちろん、公の広場や公園、学校などの公的施設、道路網や上下水道、電機、ガスといったインフラなど、必要ではあるが個人では整備することができないことを公的機関に委ね、国民ひとりひとりが基本的な環境基準を保証されるための制度です。それは、国民医療制度や福祉制度、参政権や言論の自由と同様に、階級や収入、学歴、居住地などと関係なく国民全員が享受できる権利であるのです。

産業革命以降、市民社会の数々の問題と人々が経験してきた苦しみからやっと勝ち取ってきた市民の基本的な権利として、イギリスの都市計画制度はさまざまな問題を抱えながらも今なお支持されているのでしょう。

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