Last Updated on 2021-02-05 by ラヴリー
イギリスで女性が参政権(選挙権)を勝ち取った1918年2月6日から2018年で100年になりました。イギリスでは20世紀のはじめ、サフラジェット(Suffragette)と呼ばれた婦人参政権運動家がこの目的のために過激な運動を繰り広げていました。
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サフラジェットとは?
サフラジェット(Suffragette)という言葉は参政権という意味の「Suffrage」から来ています。イギリスで20世紀のはじめ男性にしか与えられていなかった選挙権を女性にも与えるように主張した、女性社会政治連合 (Women’s Social and Political Union, WSPU)のメンバーを指します。
この連合のリーダーはイングランド北西部にあるマンチェスター出身のエミリン・パンクハースト。彼女は参政権を含む女性の社会的地位向上やマンチェスターなどに住む労働者階級の女性の生活改善を目的として活動していました。女性参政権については政党に働きかけて運動していましたが、当時イギリスでは選挙資格に財産制限があったため、すべての男性に参政権を与えることのほうがもっと大切だとされ女性参政権問題については取り上げてもらえませんでした。
それで、パンクハーストはマンチェスターの自宅に同志の女性を集め、女性社会政治連合 (Women’s Social and Political Union, WSPU)を結成し、女性たちだけで運動をはじめました。
「Deeds not words」(言葉ではなく行動)
パンクハーストたちはそれまで長い間、政治的、平和的な手段で政治家や影響力のある個人・団体に働きかけていましたが、そのような方法では何も変わらなかったということが身にしみていました。それで、彼女たちは「Deeds not words」(言葉ではなく行動)をスローガンに掲げることに決めました。
はじめは町中で人目を引くデモを行っていましたが、それくらいではあまり効果がないと悟った彼女たちの運動はだんだんと過激になっていきます。そのうち、公衆の面前で店舗のショーウィンドウに石を投げて窓ガラスを割ったり、郵便ポストに放火したりといった行動を取り始めました。さらには、手作りの爆弾を使うようになるなど、その運動はもっとエスカレートしていきます。
法律を犯す行動をとるようになったサフラジェットたちは次々に警察に捕まり、刑務所に入れられてしまいます。エミリン・パンクハーストもその娘のクリスタベル・パンクハーストも投獄され、のちに釈放されました。投獄されたサフラジェットの数はトータルで1,000人に及ぶということです。
収監されたサフラジェットたちの中には刑務所内で抗議のためハンガーストライキを行うものが出てきました。そんなサフラジェットたちは押さえつけられ鼻にチューブを突っ込まれて、無理やり食べ物を流し込まれるという扱いを受けるのです。
サフラジェットたちの過激な活動をやめさせるために、イギリス政府は「猫とネズミ法」と呼ばれる新法をも導入しました。投獄されたサフラジェットの健康状態が悪化すると一時釈放し、健康が回復するとまた投獄するという処置に出たのです。これは、投獄中に死者が出て「殉教者」とされ、サフラジェットに世論が同情するのを避けたかったためです。
しかし「殉教者」は違う形で現れたのでした。
エミリー・デイヴィソンの死
サフラジェットの一人であったエミリー・デイヴィソンは投石や放火をして9回も刑務所に投獄された強者運動家です。刑務所内では彼女もハンガーストライキをして強制摂食を受けました。
1913年6月14日、釈放されていたエミリーはエプソム・ダービー(乗馬レース)に出かけました。そのレース中、手すりをくぐってトラック内に入り、ジョージ5世が所有する馬の走路で立ちはだかり、王の馬に衝突して地面に打ち付けられたのです。彼女はその4日後、事故による頭蓋骨骨折などのため病院で亡くなりました。
エミリーの死については様々な説があり、故意に馬の下に身投げしたというものや、事故だったという説もあり、本当のところはわからないままとされていました。
最近になってレースの日に彼女が持っていたとされるシルクのスカーフが発見されました。それは「Vote for Women」(女性に投票権を)というスローガンが書かれたスカーフです。このため、彼女はそのスカーフを国王の馬につけようとしたところ、失敗し馬に蹴られてしまったのではないかと考えられています。
本当の理由はともあれ、彼女の死が大きなニュースになり、サフラジェット運動が世間に大きく知られることになったことは否めません。事故の模様は競馬レースを撮影していた報道陣により撮影され、映像にも収められていたのですから。
エミリー・デイヴィソンの葬儀にはサフラジェットも多く出席し、彼女の墓石にはWSPUのスローガンである「Deeds not words」(言葉ではなく行動)が刻まれています。
第一次世界大戦へ突入
1914年第一次世界大戦が始まると、エミリン・パンクハーストは自国が危険にさらされている間はサフラジェット運動を停止しようと提案しました。そして、戦時中、兵隊に駆り出された男性の仕事を女性が受け持つための運動を行いました。また、戦争孤児のための収容所をロンドンに作り、モンテッソーリ教育を施す運動をしたり、自らも孤児を4人引き取って育てました。
サフラジェットたちが過激な運動をやめ、戦争協力をするようになったことで、政治家や世論も女性参政権運動に好意的になりました。戦時中も女性参政権獲得のためのロビー活動は続けられており、その結果として、第一次世界大戦終了後ようやく女性にも選挙権を与えることが決まったのです。
女性参政権獲得
“Deeds not words” – they shout.
Taking over 100 years later – female MPs and Peers gather in front of the original Representation of the People Act #r4today pic.twitter.com/VlpHGTt28r
— BBC Radio 4 Today (@BBCr4today) 2018年2月6日
1918年2月6日、今からちょうど100年前に、イギリスでは国民代表法(Representation of the People Act 1918)が成立し、21歳以上の男性全員と最小限の財産条件を満たす30歳以上の女性の参政権が認められました。
(上の写真は今日2017年2月6日この法律を記念して国会議事堂で撮影されたもので、テリーザ・メイ首相を中心として女性国会議員が勢ぞろいした様子です。これを国会議事堂から生中継したBBC ラジオ4 朝のメインニュース番組 Today はオール女性キャストのラインアップでした。)
1918年にこの法律ができた時点では、まだすべての女性が参政権の対象ではありませんでした。そののち、何度かの法改正により1928年に投票権が21歳以上の全女性に広げられ、男性と同じ条件で投票できるようになりました。
イギリスより先に女性参政権が与えられた国(ニュージーランド、オーストラリア、フィンランドなど)もありましたが、多くの国では20世紀になってから認められるようになりました。現在でも女性参政権を認めていない国はサウジアラビアとバチカン市国など、きわめて少数です。
日本で普通選挙が導入されたのは1925年ですが、このときは選挙権が男性にしか与えられませんでした。大正デモクラシー以来、平塚らいてうや市川房枝などが婦人参政権運動を展開しますが、その運動は成功には至りませんでした。
日本で女性に参政権が与えられたのは戦後の1945年で、日本人がそうしたのではなく、アメリカの日本占領政策の一環としてでした。
映画になったサフラジェット「未来を花束にして」
2015年にサフラジェットの実話を元にした映画が作られました。架空の人物とされる主人公をキャリー・マリガンが熱演し、ヘレナ・ボナム・カーターやメリル・ストリープなどのベテラン女優がサポート出演する感動的な作品に仕上がっていました。
それにしても「サフラジェット」という原題が日本語になるとどうしてこういうロマンチックなものになるのか、よくわかりません。
それにグリッティーな泥臭いと言ってもいい映像からなる映画が日本版のポスターになったとたんにきれいなパステルカラーになり、お花まで添えられるのはどうしてなのでしょうか。「女性」映画だから?
英語原作のオリジナルポスターはこんな感じなのに。
史実も映画も物語っているように、女性が参政権を勝ち取ってきた道は決してきれいごとではなく、苦渋や悩みに満ちた泥臭い闘いでした。男性だけでなく多くの女性からも反対され、とりわけサフラジェットたちが行った過激な運動は「狂った女どものたわごと」と馬鹿にされ続けていたのです。
今の時代、まだまだ、男女のみならず様々な側面で同じ人間が差別され不当な扱いを受けている例はあるにせよ、わたしたち女性は男性と同じように参政権があります。これをただ当たり前のものとして受け止めるのでなく、先人たちが命がけで勝ち取ってくれた貴重な権利として大切に行使していきたいものだと思います。
そして、いばらの道を切り開いてきてくれた彼女たちのように、私たちの世代も後に続く妹や娘のために声を上げ続けなければならないのです。