自己隔離したペスト村イーム(Eyam)ロックダウン17世紀版

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Plague Cottagee

イギリスのダービシャーにある美しい村、イーム(Eyam)は17世紀にロンドンから渡って来たペスト(黒死病)により多くの被害者が出たところ。特筆すべきは村の外に感染病を広めないために村全体が自主的に「自己隔離」したという逸話です。どうして村人はそんな自己犠牲に至ったのでしょうか、そしてその成果は?

イーム(Eyam)


イーム(Eyam)はイングランド中部ダービシャーの風光明媚な田舎にひっそりとたたずむ小さな村です。ピークディストリクト国立公園の丘に囲まれたこの村では、17世紀にイギリス中に蔓延したペスト(黒死病)により1665年から1666年までの間に260人の村人が亡くなったことで「プレイグ・ヴィレッジ」と呼ばれています。(プレイグは英語でペストのこと)

ペスト流行前の村の人口は約350人でしたが、感染が収束した時はそれがわずか83人に減っていました。村の死亡率はロンドンの死亡者率よりも高かったのですが、幸いにも近隣の村や町には広がりませんでした。そのかげにはイームの村人の多大な自己犠牲があります。

17世紀のペスト流行

イギリスでは1665年にペストが大流行し、ロンドンを中心に約75,000人が亡くなりました。ピークだった9月だけで8000人が死亡し、ロンドンの人口のほぼ4分の1が亡くなりました。

その1665年9月にロンドンから遠く離れたダービシャーの村イームの仕立て屋にロンドンから布地が届きました。

布地にペスト菌を擁したノミが沸いていることを知らずに、暖炉の前で布を乾かそうとした仕立て屋の弟子ジョージがこの村で最初のペスト犠牲者となりました。

ジョージはその後1週間で亡くなり、そのあと仕立て屋の一家や近所に住む人など、ペストに感染し亡くなる人が相次ぎました。ペストは数週間で村中に広まり、9月から12月までで42人が亡くなりました。恐怖にかられ、村から逃げ出すものが多くいたそうです。

牧師と村人の約束

その当時、村に就任したばかりの牧師モンペッソンはイームから人が移動することで近隣の村々、さらにシェフィールドやベイクウエルなどの街や都市に感染が広がるのをおそれました。

ロンドンで多数の死者が出ているのを知っていたモンペッソンはペストの恐ろしさを理解していました。効果的な治療方法もない当時、感染を止めるのには感染者が他の人にうつさないようにするしかないということが彼にはわかっていました。

就任したばかりで村人の信頼を得られるかどうか自信がなかった彼はピューリタン司祭スタンリーにも協力を仰ぎ、2人で村人全員を説得することにしました。

1666年6月24日に彼らは集会を開いて村人に語りかけました。そこで、自分たちはペストの犠牲になろうとも、感染を村から広めてさらに大きい被害を出さないように下記のことを約束してくれないかと頼んだのです。

  • 村民全員が自己隔離し、村から出ることなく、誰も入れることなく生活する
  • 死亡者が出た家庭は、自分たちで遺体を家の敷地内に埋葬する(村の共同墓地でなく)
  • 教会内での葬儀は行わず、村はずれの野原で屋外集会を行う

村人の心中は悲痛なものであったと察しますが、みんなこの約束を守ることにしたそうです。

自己隔離の村

6月から同年の11月に村でペストがようやく収束するまで、村人たちは自発的な隔離を続け、村から出ることなく生活しました。

その間、近隣の村人や貴族(近くにあるチャッツワースに住んでいたデヴォンシャー公爵)が食べ物や医薬品などの必要物資を村のはずれまで届けました。

救援物資を受け取ったイーム村の人たちは、野原に置いた「バウンダリー・ストーン」と呼ばれた石に6つの穴を掘り、穴に消毒のための酢を入れ、その中に洗ったお金を支払い用に入れました。

この石は今でも村はずれに保存されていて、実際に見ることができます。

孤立した村内のペストの流行はなかなか終わらず、1666年8月は死者がピークに達して一日に5~6人が亡くなったそうです。それでも村人は約束を守って村から出ようとはしませんでした。

自己隔離を提案したモンペッソン牧師は27歳の妻をも、ペストで失いました。彼女は牧師と共にペストにかかった患者の看病や世話をしたりするうちに感染してしまったのです。

実は村でペストが流行し始めた時、モンペッソンは子どもたちと妻キャサリンをシェフィールドに送り出そうとしました。けれどもキャサリンは牧師のもとに残ると言い、子供たちだけ親戚の家に送ったのです。

モンペッソン夫妻2人が散歩に行った時、彼女は「甘い香りがする」と言ったということが記録にに残っています。ペストで死が近づくとなぜか甘い香りがするということが知られており、牧師は妻の死を予感したのですが、彼女はその翌日に息を引き取りました。

夫と6人の子供をわずか8日間ですべて亡くしたエリザベス・ハンコックという女性についても知られています。彼女は家族全員を自ら埋葬したのですが、重い夫の死体を埋葬するために脚を引きずる姿を描いた絵がイームの博物館に展示されています。

感染収束後

イームの村でペストが収束したのは1666年の11月です。14か月の間に250人の死者を出した村の生存者は83人。

その多大な自己犠牲の精神は感染症の予防としては英断といえ、ペストがこの村から周囲の村やシェフィールドなどの大都市へ感染拡大することはまぬがれました。

モンペッソン牧師がシェフィールドの親戚の家に預けていて無事だった子供のうち、長男がこの「ペスト村」についての記録を本に書いたことで、この悲しい逸話は世に残っています。

ペストで犠牲になった牧師夫人キャサリンを悼んで8月の最後の日曜日は「ペストの日曜日」として彼女の墓碑に花を捧げる行事が今でも行われています。

Plague Cottagee

ペストによって激減したイームの人口も次第に増え、今は1000人程度になっています。

ペストの流行が始まった仕立て屋の建物を博物館にした「プレイグ・コテージ」ができていて、当時の様子を知ることができます。

新型コロナウイルスとペスト

これまで大きなパンデミックからまぬがれてきた私たちですが、新型コロナウイルスによって感染症流行の恐ろしさが身に染みている毎日です。

感染症流行を封じ込めるための手段としての「自己隔離」や「ソーシャル・ディスタンス」(社会的距離)がいかに大切かが理解されるようになってきましたが、17世紀の頃から感染防止の基本的な手段は変わっていないということがわかります。

武漢でも徹底的なロックダウンが行われましたが、あれは中国政府や市当局が半ば強制的に行ったもの。

小さな村の人たちが自ら、自己犠牲のもとに公のために行った果敢な行動が多くの命を救ったことに心を動かされます。

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