Last Updated on 2018-08-01 by ラヴリー
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコ世界遺産に登録されようとしています。長崎の「隠れキリシタン」のことは聞いたことがありますが「潜伏キリシタン」という言葉は耳新しく、同じことなのか疑問に思ったので調べてみました。
Contents
ユネスコ世界遺産登録
日本はユネスコ世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、熊本県)を推薦していました。そして、このたび、登録の可否を事前審査する国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関であるイコモスが登録が適当であると勧告したとの発表がありました。
6月24日~7月4日にバーレーン・マナマで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式決定する予定ですが、世界遺産として認められる可能性は極めて高いということです。
長崎・天草潜伏キリシタン関連遺産
この遺産の名称は当初は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」でしたが、2016年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に変更されました。
英語では「Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region」となっています。
ユネスコの諮問機関イコモスが名称に「潜伏キリシタン」を採用するよう助言したのだということです。これは、日本の特徴であるキリスト禁教期に焦点を当てるべきだという理由からです。
そのため、政府は旧名称で提出していた推薦を一度取り下げました。そして、禁教期と関連の低い資産を除外し、江戸時代に踏み絵、投獄、拷問などで知られる弾圧を受けながらもキリスト教信仰を守りぬいた歴史を伝える遺産構成に変更し、新しい名称で再推薦をしたのです。
この地方のキリスト教信仰の歴史は、2世紀以上にわたるキリスト教禁教政策の下でひそかに信仰を伝えたということで、ほかに例を見ない証拠となっているため、世界的にも貴重な資産だと評価を受けているのです。
「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」は異なるのか
わたしたちは「隠れキリシタン」という名称に慣れていて、「潜伏キリシタン」という言葉は聞きなれないので違和感があります。
「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」というのは、同じ意味なのでしょうか。もしそうだとしたら、どうして聞きなれている「隠れキリシタン」という言葉が使われなかったのでしょうか。
調べてみたところ、厳密には「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」の定義は違っていました。
「潜伏キリシタン」とは
16世紀半ばに伝わったキリスト教信仰は日本各地で広まったが、豊臣秀吉以後の幕府の厳しい弾圧により宣教師は国外追放、多くのキリシタンは棄教、殉教した。
キリシタン禁制時、長崎や天草地方において強制改宗により仏教を信仰していると見せかけつつ、ひそかにキリスト教(カトリック)を信仰し続けた信者を潜伏キリシタンと呼ぶ。
天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、祈りを捧げたりした。
「隠れキリシタン」または「かくれキリシタン」とは
1873年(明治6年)に禁教令が解かれ潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信者。
長い間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで伝えていったため、土着の信仰生活の中に溶け込んだ民族宗教に変化していった。
現在でも長崎県の生月島や熊本県天草などでその教えを信仰する人がいる。
この定義からもわかるように「潜伏キリシタン」というのは、弾圧下に隠れてキリスト教を信仰していた人たち、「隠れキリシタン」はキリスト教の教義から離れ土着の民族信仰に変わっていったものなんですね。
実際にキリスト教の信仰が解禁された時、隠れキリシタンの多くの人はカトリックへの改宗に応じなかったそうです。
とはいえ、一般的には「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」は区別せずに使われています。
海外でも、厳しい弾圧にも関わらず信仰をやめなかった日本のキリシタンたちへの評価は高く、バチカンのフランシスコ教皇も日本のキリスト教共同体がひそかに信仰と祈りを守ったことを「偉大です。」と語っています。
バチカンのローマ教皇庁は「彼らは孤立していたが、常に神の民の一員だった。」として、隠れキリシタンをキリスト教徒とみなさない理由はないとしています。
英語でもこの両方の言葉を「Hidden Christians」と呼んでいます。これは、明治期に日本に来た宣教師が本国やバチカンへ送った書簡に見られる呼称です。この呼称がユネスコ世界遺産推薦のために提出された書類にも用いられているのです。
ちなみに英語ではキリスト教徒のことを「クリスチャン」と言いますが、「キリシタン」というのはポルトガル語からきているということです。
世界遺産構成要素
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素は現存する国内最古のキリスト教会である「大浦天主堂」(長崎市)や、禁教下で潜伏キリシタンが信仰を守った「天草の崎津集落」(熊本県天草市)、島原の乱の舞台となった国指定史跡の原城跡(長崎県南島原市)など12の遺産からなります。
- 原城跡
- 平戸の聖地と集落
- 平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
- 天草の崎津集落(中江ノ島)
- 外海の出津集落
- 外海の大野集落
- 黒島の集落
- 野崎島の集落跡
- 頭ケ島の集落
- 久我島の集落
- 奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
- 大浦天主堂
世界遺産の総数は
今現在、世界遺産の総数は、文化遺産832件、自然遺産206件、両方の価値を備えた複合遺産35件の計1073件となっています(2017年7月時点)。
日本では、昨年の沖ノ島(福岡県)まで文化遺産17件、自然遺産4件の計21件が登録されています。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録されれば、日本の文化遺産登録は18件目となります。
まとめ
長崎にはずっと行きたいと思っていたので、数年前に思い切って一人旅してきました。そういえばノーベル賞作家のカズオ・イシグロが幼いころに住んでいた長崎の思い出を話していたのが印象的です。彼が言っていたように長崎は日本のほかのどの町とも違っているところでした。
世界遺産になった大浦天主堂のほかにも、平和公園やグラバー邸など見どころがたくさんあるのですが、とにかくうろうろ歩くだけで楽しめる街です。
海からすぐに丘が迫っている地形に立つ家々の中に教会や洋館がちらほら混じっている風景。坂道やうねうねとくねった細道を歩いていくうち、思いがけず広がった視界に街や海が見渡せる風景がいいのです。
この機会にぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。おすすめです。
>「潜伏キリシタン」というのは、弾圧下に隠れてキリスト教を信仰していた人たち、「隠れキリシタン」はキリスト教の教義から離れ土着の民族信仰に変わっていったものなんですね。
表現に違和感があります。
潜伏キリシタンもまた、徳川幕府の下で信仰の秘匿を強いられた時期には民間信仰と混じり、独特の形態に変化を遂げていました。
この信仰は、キリシタン同士の交流もおこなわれず、口伝により全てが継承されたため、地域ごとにかなりの差異が生じてしまいました。
カトリックとの差異はたいへん大きなものとなったため、先祖の供養のために先祖伝来の信仰を守ることを選んだ人々は「カクレキリシタン」のまま、先祖たちが待ち望んできたオープンで正式な信仰を選んで改宗した人々はカトリック信徒となりました。
(私が話を聞いた感じでは、どちらの宗派を選ぶにせよ「先祖のため」という意識が強かったようで、そのあたりが日本人特有だなと思いました)
なお、私が以前見た事典では、「隠れキリシタン」は歴史学用語で徳川幕府下の潜伏キリシタンを指し、「カクレキリシタン」は民俗学用語で現代まで続く信者を指す、とありました。
私はカクレキリシタンの家系に生まれましたが、隠れ蓑は仏教ではなく神道でした。
貴重なご意見ありがとうございます。
いろいろな情報を参考にしましたが、それぞれ少しずつ違っていたりして定義が確定的ではないようです。
呼び方(漢字表記かかな表記かも含め)、定義、カトリックとの違いなども様々なようで一概には表現できないため、分かりやすいようにと思い簡単にくくりすぎたかもしれません。
読者の方々にはA.Hさんのご意見や当事者としての情報も参考にしていただけると思います。