北アイルランドはイギリスか?北アイルランド問題とイギリス・アイルランドとの関係

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Last Updated on 2019-10-06 by ラヴリー

よく「北アイルランドってアイルランドの北のこと?」と聞かれることがありますが、北アイルランドはイギリスの一部です。北アイルランドとイギリス、アイルランド両国との関係性、またそれにまつわる北アイルランド問題について、紛争の原因や歴史、解決に至った経緯についてわかりやすく簡単に説明します。

Contents

北アイルランドはどこにある?

まず「北アイルランド」はどこにあるのでしょうか。

一言で言うと地理的にはアイルランド島の北東部にありますが、政治的にはイギリス連合王国の一部です。

そもそも「イギリス」の概念が誤解されがちなので確認のためには下記記事を参考にしてください。

正式名称:イギリス・英国・イングランド・UK・GB の違い、英語で何と言う?

UK & Ireland

イギリスの正式名称が「グレート・ブリテンと北アイルランドということからわかるように、右の地図でいうと黄色の部分がイギリス全土です。

グレートブリテン島のイングランド、ウエールズ、スコットランドだけでなく、その西にあるアイルランド島の北東部分「Northern Ireland」と表記されているところもイギリス国家の一部です。

そして、残りのグレイの部分が「アイルランド」(または「アイルランド共和国」)という別の国になります。

どうしてこのような国境になっているのかというと、アイルランドとイギリスとの間には長い歴史における複雑な関わりがあったからです。

かつての大英帝国は世界中に植民地を有していましたが、おとなりのアイルランドもその例外ではありませんでした。

その植民地支配から独立しようとしてきたアイルランドとの紛争の歴史がこのような不自然な国境として残っているのです。

北アイルランド紛争とは

「北アイルランド紛争」とは、イギリスに属する北アイルランドで長年において続いてきた問題です。

北アイルランド紛争を英語でいうと「The Northern Ireland Conflict」 ということになります。

けれどもイギリスやアイルランドでは、ただ単に「The Troubles 」と呼ばれることが多いです。こちらでは、すでに固有名詞がいらないほどの問題となった紛争なのです。

この紛争については、複雑な歴史があり、歴史の解釈や政治的、宗教的見解によってもさまざまな見方があります。そのため、簡単には説明できないところもあるのですが、わかりやすく一言でいうとこういうことです。

北アイルランドというイギリス国に属する地方をめぐって、
アイルランド統一を目指すカトリック系住民(リパブリカン)と
イギリスに残りたいと願うプロテスタント系住民(ロイヤリスト)が対立し、
暴力やテロ行為に発展し、それにイギリスの治安当局や政治家がからんで
さらに複雑になっていった紛争

この紛争には、リパブリカンの武装組織、ロイヤリストの武装組織、北アイルランド警察(RUC)、イギリス軍、政治活動家、市民運動グループ、国内外の政治家が複雑にかかわりました。

1960年代から80年代にかけては北アイルランドだけでなく、アイルランドやイギリス本土でもテロ活動があいつぎ、一般イギリス人にとっても対岸の火事とは言えない大問題だったのです。

約30年にわたる相互テロで、合計3,600人以上の死者と多くの負傷者が出た上、イギリス本土でもテログループによる爆破や爆破予告により社会生活にも影響を受けるほどでした。

双方の敵対心はエスカレートし、政治的解決も泥沼化し、一時は絶望的に見えた状況でした。

けれども、関係者や政治家の努力により少しずつ話し合いが進み、1998年にようやく和平合意が成立したのです。

世界中で民族、宗教、文化などの違いによる対立が後を絶たない中、これほどの紛争が平和に向かった近代史は奇跡といってもいいでしょう。

どうして平和が実現したのか、その歴史を見ていきたいと思います。

北アイルランド紛争の歴史

北アイルランド問題がテロ活動に発展したのは主に1960年代からです。

けれども、これは歴史をずっとさかのぼって12世紀に始まる、イギリスとアイルランドの因果関係に端を発しています。

12世紀以降のイングランドによるアイルランド侵攻

イングランドによるアイルランド侵攻は12世紀から始まりました。

後に北アイルランドとなる北東地方だけでなく、アイルランド島全部がイングランドの支配下となったのです。

それ以来、イギリスからアイルランドに移民が移り住み始めましたが、その多くはアイルランド北東部のアルスター地方に住み着きました。

これらの移民はイングランド系、スコットランド系のプロテスタント信者が主でした。

その後、アイルランドは長くイギリスからの独立を目指し、16世紀にはアルスター蜂起が起こりましたが、イギリス軍に鎮圧されました。

カトリック教徒の多いアイルランドでは、プロテスタントのイギリスに反発して、17世紀にカトリック教徒の反乱が起こりました。

これを鎮圧するため、クロムウェル率いるイギリス軍がカトリック教徒を弾圧したことで、カトリック対プロテスタントの対立がより激しくなっていきます。

アイルランドの独立運動

一時はイギリス軍に鎮圧されたアイルランドですが、1789年のフランス革命などに影響され、イギリスの支配から独立しようという民族運動がおきました。

その結果、カトリック教徒が「ユナイテッド・アイリッシュメン」という組織をつくり、プロテスタント住民に対する攻撃を行うようになったのです。

それに対抗してプロテスタント側は「オレンジ・メン」という武力組織を結成します。

19世紀の終わりごろになると、イギリス政府はアイルランド独立のための自治法案を提案します。

けれども、北アイルランドアルスター地方のプロテスタント系住民は独立に反対し、イギリス領に残ることを主張しました。そして、彼らはオレンジメンを中心にアルスター義勇軍という軍隊を結成するに至るのです。

イースター蜂起からアイルランド独立戦争

1914年にはアイルランド自治法が提案されましたが、第一次世界大戦により凍結されました。これに反発して、1916年に共和国独立を目的とするイースター蜂起が起きました。

この蜂起はイギリス軍に鎮圧され、首謀者のパトリック・ピアースらが処刑されました。このことで、アイルランドの人々はイギリスに対する憎悪をますます強くし独立の気運を高めました。

そして、1919年にアイルランド共和軍(IRA=Irish Republican Army)が結成され、アイルランド独立戦争が始まるのです。

アイルランドの独立

アイルランド独立戦争は2年半続き、1921年に休戦協定が結ばれました。その結果、北アイルランド北部6州をのぞくアイルランド26州がアイルランド自由国となりました。

国とはいえ、まだイギリス連邦の下に置かれ、英国王を元首とする形だったので、それに不満を持つものが真の独立を唱え続けました。

1938年になると、英連邦内でのアイルランド自由国の独立が承認されました。この結果、第二次世界大戦後の1949年にイギリスから完全に独立したアイルランド共和国が実現するのです。

しかし、北アイルランドはアイルランド共和国と離別し、イギリス国の一部として残ることになりました。この状態が現在に続いているわけです。

北アイルランドでのカトリックとプロテスタント住民の対立

アイルランド共和国がイギリスから独立し、独自の国づくりを始めたのに対し、イギリスの統治下として残った北アイルランドでは、地元カトリック住民とイギリスやスコットランドから移住してきたプロテスタント住民が共存する形となりました。

双方は何かと対立するようになり、そのうち多数派のプロテスタント住民が少数派のカトリック住民に対して就職、住居、政治活動など様々な面で差別を行うようになっていきました。

それに反発するカトリック系住民はデモ運動などを行いましたが、プロテスタント系のアルスター警察(RUC=Royal Ulster Constabulary)に鎮圧され続けました。

さらに、1966年にオレンジメンを中心として結成された非合法組織アルスター義勇軍 (UVF=Ulster Volunteer Force)による、カトリック住民に対するテロ行為が始まりました。

このような状況で、カトリック住民とプロテスタント住民の対立は悪化するばかりで、IRAやUVFのテロ行為も頻繁に起こるようになりました。

1969年にはカトリック住民とRUCの間で暴動が発生したため、イギリス本国から軍隊が派遣され警備につくまでになりました。

そんな中、1972年に血の日曜日(Bloody Sunday)と呼ばれる事件が起きたのです。

これは、北アイルランドのデリー(ロンドンデリー)で平和的に行進していたカトリックの一般市民にイギリス軍隊が発砲して14人の死者を出した事件です。この事件でカトリック系住民の反発は根強いものになりました。

そしてその半年後、今度はIRAによる血の金曜日事件 (Bloody Friday) が起こります。ベルファストで20発もの爆弾によりイギリス軍兵士2人を含む9人の死者、130人の負傷者を出したのです。

これ以外にもIRAは北アイルランド、イギリス、アイルランドでテロ行為を繰り返しました。

また、RUCとイギリス軍、アルスター義勇軍も攻撃やテロを行い、紛争はますますエスカレートしていきました。

そのうちIRAはテロ行為をアイルランドだけでなく、イギリス本土でも頻繁に起こすようになりました。

ロンドンやマンチェスターなどで実際に大規模な爆破行為やテロを行い、さらに爆破予告を繰り返すことにより、イギリス一般市民の生活をも脅かしたのです。

一方、サッチャー保守党政権のテロリストグループに対する強硬な対応は、IRA受刑者のハンガーストライキによる死者10人を生むといった事件にも発展しました。

北アイルランド和平交渉

このように泥沼化していた状況の一方では、様々な人々によって和平に向けての努力も続けられていました。北アイルランド内でも武力闘争やテロ活動に反対する住民も少なくなかったのです。1977年には和平活動を続けていた女性活動家2人がノーベル平和賞を受賞していますが、その努力もむなしく武力闘争はすぐにはなくなりませんでした。

そんな中、1985年に「英国アイルランド協定」が調印され、北アイルランド問題の解決に向けた政府間の対話の仕組みが形成されます。双方の過激派組織が交渉の席につき、長い紆余曲折を経て、1994年にIRAの停戦宣言が実現しました。

1996年には米大統領クリントンがミッチェル国際委員会を派遣。1997年にブレア率いる労働党が政権を握ってからは、和平交渉がさらに進みました。

そして、1998年にイギリス、アイルランド、北アイルランド諸政党間において、包括的な和平合意となる「ベルファスト合意(Good Friday Agreement)」が成立したのです。

2011年にはエリザベス女王がアイルランド共和国を公式訪問しました。さらに、2012年に即位60周年記念行事の一環として北アイルランドを訪れたエリザベス女王は元IRA司令官マーティン・マクギネスと握手を交わしたのです。

これは、北アイルランドの長い紛争に終止符が打たれたことを象徴する歴史的な出来事でした。

北アイルランドの平和のために

北アイルランド紛争は長い間、泥沼化し、その解決は困難どころか不可能とも思われていました。その紛争を終わらせることができたかげには、かつて憎み合ったカトリックとプロテスタント関係者双方の歩み寄りがありました。

テロ機関であったIRAに関わったマーティン・マクギネスやジェリー・アダムスといった人物が和平後の北アイルランドで重要な役割をすることに対して穏やかでない人々もいます。それでも、双方の住民や関係者が過去の憎悪を忘れ、未来の平和のために努力しようとしたからこそ今の北アイルランドがあります。

たとえば、政治政党であるシン・フェインで34年間党首をつとめ、2018年に引退したジェリー・アダムズがIRAのテロ行為に関わってきたことは周知の事実です。彼が引退するというニュースに関して、ツイッターではIRAによって殺された人の写真と共に「killed by IRA」とツイートする人もいました。

そのジェリー・アダムズは、引退した日にこのように述べました。

「北アイルランド紛争でたくさんの人が亡くなったり負傷したことについては後悔している。特にIRAによって殺された人々の死については。」

「私を裁く人もいるだろう。私はそれを受け止める。」

「紛争で苦しい思いをしたにもかかわらず、和平に向けて努力しようとする人々に会うたびに感動した。」

「我々はあんなことが2度と起こらないようにしなければならない。」

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