Last Updated on 2019-04-30 by ラヴリー
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英国ダイアナ妃死後20周年
1997年8月31日にダイアナ妃がパリで事故死を遂げてから20年になります。あの時イギリスにいた私にはそのショックが記憶に新しいのですが、若い人たちにとっては「ダイアナ妃って誰?」という程度かもしれません。彼女はイギリスのエリザベス女王の長男チャールズ皇太子(第1位王位継承者)の最初の妃でしたが離婚し、その後36歳で交通事故死しました。ダイアナ妃がどういう人だったのか、どういう人生を送ったのかということを私なりにお話したいと思います。
生い立ち
ダイアナ妃は1961年7月1日生まれ、ノーフォーク州にあるサンドリンガムで、スペンサー伯爵の3女として生まれました。8歳のとき両親が離婚し、父親にひきとられました。両親の不仲から離婚に至る出来事は彼女に大きな心の傷を与えたということです。父親は後に再婚しましたが、継母との仲はよくなったそうです。
9歳までは自宅で教育を受け、そのあと寄宿学校に入りましたが、学校の成績はいい方ではなかったそうです。けれどもバレエ、水泳、乗馬などのスポーツが得意で、バレリーナになりたいと思っていたそうですが、身長が178cmにまで伸びてしまいその夢は諦めざるを得ませんでした。
学校では控えめながらも人気があり、社会奉仕活動では特別賞を受けたということです。その後スイスのフィニッシングスクールに行ったあとはロンドンでナニー、保母などをしていました。
チャールズ皇太子との結婚
1977年にチャールズ皇太子がダイアナのお姉さんのセーラと交際していたときが初めての出会いでした。とはいえ、その時ダイアナはまだ若かったのでチャールズの結婚相手の候補には上がっていません。チャールズはその当時セーラほか数々の女性と交際してもなかなか結婚にはいたりませんでした。そのうちダイアナはパーティーでチャールズと再会し、1980年に本格的な交際が始まりました。ヨットでのセーリング、女王のバルモラル城への招待などを経て1981年2月に婚約しました。とはいえ、2人は結婚するまで12回とか13回とかしか会ったことがなかったと言われています。
同年7月29日にセント・ポール大聖堂で盛大に結婚式が行われ、世界中の注目の的に。その時チャールズは32歳でしたが、ダイアナは20歳という若い花嫁でした。
王子誕生と結婚生活の問題
1982年にウィリアム王子が、1984年にハリー(公式名ヘンリー)王子が生まれましたが、チャールズ皇太子との仲はだんだんと悪くなっていきました。この頃からダイアナは摂食障害などの心の病に苦しみ始めます。ハリーが生まれてしばらくすると、チャールズはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、別荘のハイグローヴで暮らすことが増えてきました。2人の不仲の理由は年が離れていて共通の趣味、話題が少なかったこと、性格が合わなかったこと、若いダイアナ妃が王室のしきたりになかなか慣れなかったことなどもあるでしょうが、他にも大きな問題があったのです。
実はチャールズ皇太子には結婚前につきあっていたカミラという女性がいたのですが、彼女は別の男性と結婚してしまいました。チャールズと相性は良かったのですが、家柄などを考えると皇太子の結婚相手としてはふさわしくなかったのです。それでもチャールズにとってはカミラは特別な存在で、ダイアナと結婚してからもひそかに付き合いは続いていたのです。
結婚後しばらくして、チャールズとカミラの仲はダイアナにも知られるようになりました。そのうちダイアナとチャールズの結婚生活は破綻し、1992年には別居、そして、その翌年には皇太子とカミラが愛をささやきあう電話のテープがスクープとなり一般にも知られるようになりました。
1995年、ダイアナ妃は異例のテレビインタビューに出演して、皇太子との「結婚生活に3人がいた」としてカミラの存在について語り、自らも元将校のジェームズ・ヒューイットと不倫していたことを認めました。このとき、ダイアナは自分はイギリス王妃ととしてではなく「人々の心の王妃」になりたいと語りました。
チャールズ皇太子と離婚
1996年には正式に離婚が成立。ダイアナ妃はウィリアム、ハリー王子の親権をチャールズ皇太子と平等に持ち、子供とともにケンジントン宮殿に住み続けること、1700万ポンドと推定される慰謝料などを条件に離婚を承諾しました。その後ダイアナは Her Royal Highness (妃殿下)の称号はなくなり、 Princess Diana と呼ばれるようになりました。
離婚して王室の公務から解放されたダイアナは、その後自身が情熱を持っていたチャリティー、エイズ、ハンセン病、地雷除去などの活動へ積極的に取り組みました。地雷問題のために危険なアンゴラを訪問したり、当時タブー視されていたエイズ患者と握手をしたりしてマスコミや全世界の人々の関心を集め、大きな役割を果たしました。
離婚後はパキスタン人の心臓外科医 ハスナット・カーン と交際していました。またロンドン老舗デパートハロッズのオーナーであるエジプト人富豪モハメド・アルファイドのサントロペの別荘に招待され、その息子である映画プロデユーサーのドディ・アルファイドとの交際が始まりました。
パリでの交通事故死
そして、1997年8月31日深夜パリでドディとともに乗っていた車が追跡してきたマスコミの車をまこうと猛スピードで走っていとところ、交通事故を起こしてしまったのです。助手席に座っていたボディーガード以外、3人ともシートベルトをしていなかったそうです。車は大破し、運転手とドディは即死。ダイアナは救出されましたが、数時間後病院でなくなりました。ボディーガードのみ重症を負ったものの、命はとりとめました。
ダイアナ死亡のニュースが入った直後、当時のイギリス首相トニー・ブレアは 「ダイアナ妃は人々のプリンセスでした」というスピーチを行い追悼の辞をのべました。それに呼応するかのように、日頃冷静なイギリス人が感情を公にして泣きながらダイアナの死を悼む様子がニュースに流れるのを見て、私は少なからず驚きました。バッキンガム宮殿やケンジントン宮殿のゲートの前は花束で埋め尽くされていましたし、イギリス中の市役所などの公的機関でダイアナ妃追悼のための記帳が用意され、周りの人もみんなダイアナの死を悲しんでいました。これまで公で自分の感情を表すことを避けてきたイギリス人がダイアナ妃の死を境に変わってきたとする社会的現象を表す Dianafication (ダイアナフィケーション)という新語が生まれたほどです。
ダイアナの葬儀
9月6日にウェス卜ミンスター寺院でダイアナ妃の葬儀が行われました。葬儀の模様はBBCにより中継され、その視聴率は史上最高の1929万人を突破しました。また、イギリスだけでなく世界中で約25億人が葬儀を視聴したとされています。
葬儀にはサッチャー元首相、アメリカ大統領夫人ヒラリー・クリントン、パヴァロッティなど2000人が出席しました。エルトン・ジョンが ‘Candle in the Wind’ を リメイクした曲 ‘Goodbye England’s Rose’ をダイアナ妃に捧げ熱唱しました。
ダイアナの弟であるスペンサー伯爵チャールズの弔事は「ダイアナは人々に寄り添い、苦しみや喜びを分かち合うことができる人で、そのために王室の称号を必要としませんでした。」と述べました。
葬儀の後、ダイアナの棺はスペンサー伯爵家のオルソープ (Althorp) へ運ばれました。遺体はダイアナが幼いころに遊んでいたという、湖に浮かぶ小島に眠っています。
ダイアナの人生
貴族の娘でありながら精神的には不安定な子供時代。20歳という若さで皇太子と結婚し子供をもうけるも、結婚生活は破綻。離婚して新しい人生を模索中に36歳で突然の事故死。波乱万丈なドラマのような一生で、ダイアナについてはさまざまな感想、意見、憶測が飛び交っていますが、ここでは私の個人的感想を述べます。
ダイアナという女性はナイーヴで感情的なロマンチストだったようです。学歴や知識は乏しく人生経験もなかった夢見る乙女がずっと年上の王子様に求婚され、めでたしめでたしのプリンセスになるつもりだったのに、現実はちがっていたということだと思います。男性との交際経験もなかったダイアナにとってはチャールズ皇太子が本当の意味で初恋といってもよかったのでしょう。愛し合って幸せな生活を送るのだとばかり思って結婚してみると、堅苦しい王室のしきたりに沿わなくてはならず、毎日のようにある晩餐会で偉そうな人たちと話をするのが苦痛。夫は公務に忙しくかまってくれないし、一緒に過ごす時間ができたとしても夫の趣味は戸外での乗馬、散歩、ポロなどで、自分はロンドンでショッピングしているほうがいい。チャールズにカミラという特別の女性がいることに気がつき、何とか夫の気持ちを自分に向かわせようとしたけれど無理だった。結局私は王室の跡取りを産むために利用されただけなのかも、ということだったと思います。
チャールズの不幸
チャールズ皇太子の言い分としては、本当に愛していた女性とは結婚できず、将来の国王という身分のため仕方なく、性格も趣味も合わず一緒にいても面白くない若いきれいなだけのお人形さんを嫁にもらうしかなかった。まあ、伝統的にいっても王子や国王というものは、そうおおっぴらにしない限りは愛人をもっても許されるものだから表向きは結婚生活が順調にいっているふりをして、カミラと今まで通り付き合えばいいのではないか。ダイアナも今は若いけれど、そのうち自分に合うような大人の女性に育っていくかもしれないし、自分がその手助けをできるだろう、という感じだったのでは。
結局、ダイアナは愛のある結婚を夢見ていたのに対し、チャールズは王室にふさわしい結婚が表向きにできればいいと思っていたという見解の不一致が不幸な結果になったのだと思います。ダイアナとしてはチャールズに愛をもって接してほしかったし、チャールズ(とその周辺)の方では、伝統ある英国王室に嫁して来たからにはダイアナにはそれなりの覚悟でいてもらいたいということだったでしょう。実際、その頃までの王室や貴族の結婚なんて称号や身分、お金目当てのものがほとんどだったのですから。それを覚悟して結婚したのだったらよかったのでしょうが、ダイアナはそうではなかったんですね。最初から相容入れない結婚だったのでしょう。
カミラはダイアナからチャールズを奪った悪女だと言われることが多いですが、チャールズと趣味が合い、ダイアナに比べると人生経験も教養もあったでしょうから一緒にいて楽しい存在だったのではないでしょうか。チャールズがダイアナと結婚してからも不倫を続けていたことは責められることでしょうが、王子である立場と自分の本当の感情の狭間で彼にはそうするしかなかったのかもしれません。今はカミラと幸せそうにしているチャールズ、最初から彼が周囲の反対を押し切ってでもカミラと結婚していたらよかったのかもしれませんが、時計は元に戻せません。
ダイアナのレガシー
波乱万丈の人生を送ったダイアナ妃が残してくれたものがあります。まずは彼女が手がけた数々のチャリティー活動。ホームレス、エイズ、ハンセン病、地雷撲滅などのチャリティー活動は世界中のマスコミやファンが追いかけるダイアナの活動のお陰で大きく関心を集めました。当時タブー視されていたエイズ患者と握手したり、危険極まりないボスニアの地雷原を歩くダイアナのすがたは世界中に配信され、その活動は盛り上がりました。
ダイアナに限らず英国王室のメンバーは様々なチャリティー活動に従事しています。けれどもダイアナはエイズや末期ガン患者、ホームレス、恵まれない子供など社会の弱者を支えるチャリティーに重点をおいていました。それも、ただ公式行事に出席したり寄付をするというのではなく、病室やホームレスセンターなどに自ら赴き、弱い立場にある人に寄り添って力づける姿がイギリス国民の支持を得ました。
また、ダイアナが自らの苦悩や悩み、それによって患った心の病について公にしたことで、同じように悩みを持つ一般国民の共感を呼んだと共に、そういうことを恥ずかしいこと、人前で言ってはいけないこととするタブーを打ち破るのにも大きく貢献しました。それまでの王室は尊敬されるべき存在ではあったものの「人間的」ではなく仮面をかぶっているようであったため、特に社会の底辺にいる人たちにとっては遠い存在だったのが、ダイアナのお陰で身近に感じられるようになったのです。
母親としてのダイアナの最大のレガシーはウィリアムとハリー王子。王室の伝統に逆らって「なるべく普通に育てたい」と学校教育から日々の生活におけるまで尽力した彼女の努力が実って、2人とも国民からも親しみを持たれる好青年に育ちました。幼くして両親の離婚、最愛の母親の早すぎる死を経験した王子たちは自分でも心の悩みを経験したことで苦しんでいる人の気持ちがわかるようになったようで、ダイアナ妃が手がけたチャリティー活動のいくつかも彼らが継承しています。ダイアナに「ありのままでいなさい。そして世界をよくするために、自分が出来るだけのことをしなさい。」と言われたことをずっと守っているそうです。
最後に、ダイアナはイギリス社会とイギリス王室を変えました。離婚や独断インタヴューなどダイアナが起こした一連の「不祥事」のせいでロイヤル・ファミリーは伝統ある王室に傷がついたと思っていたでしょうが、結局はそれが王室を国民により近い存在にする結果となりました。ダイアナの死直後に女王をはじめとする王室メンバーに不満が高まったことがありましたが、女王が譲歩したことで国民はロイヤル・ファミリーに対する愛情を再発見したように思います。それは、これまでのようにお硬い雲の上の存在である王室ではなく、悩みも問題もある生身の人間である、自分たちの象徴としての Our Royal Family (我々のロイヤル・ファミリー)に心を寄せる気持ちです。
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